傘の中、降るのは

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とてつもなく速いけれど、おとぎ話に出てくる空飛ぶ絨毯そのものという不思議な形状をした乗り物である流星号であっという間に着いたレストランは、ちょうど予約の時間だった。

料理の味もさることながら、デザートがとてもおいしく店の雰囲気も良い、ここ最近ぼくが一番気に入っているレストラン。普段なら、バンコランがぼくの好みの店を選んでくれただけで、そのことが嬉しくて仕方無いのに、今日のぼくにはそれが機嫌取りに思えてしまう。

ありがとう、と礼を言いはしたものの、いつものように喜びをあらわにしないぼくを、バンコランは訝しんでいるだろう。浮気に気づいているのだろうか、それならばなぜ黙っているのだろうと不審に思っているのかもしれない。二人がけの席で向かい合い、ワイングラスを差し出して乾杯を促す目線に、いつもの甘やかさはない。きっとぼくも同じなのだろうけれど。

とにかく、食事をしよう。お腹は空いている。ここのデザートを食べれば、単純なぼくの気分がいつもの調子に戻るかもしれない。気を取り直して、グラスを手に取り、彼のグラスに近づけた。

「乾杯」

「ああ」

 少しだけ、目線が柔らかくなる。

 大好きな、深い深い黒の瞳。こんな時でも、じっと目を見れば、途端に彼が恋しくて仕方がなくなる。目を合わせたまま。ワインを口に含む。今日はぼくも肉料理なので、赤。この恋のように、苦くて甘い。

「おいしい」

「そうか」

「うん。あなたには、軽すぎる?」

「いや、そうでもない」

 何でもない会話が続くのは、随分久しぶりに思えた。実際は、長くても三時間といったところだろうけれど、彼と心を隔てて一人沈んで悩む時間は、とてつもなく長く感じられる。彼の声が長く聞けて嬉しい気持ちと、また口を滑らせはしないかという緊張感が交錯する。ワインを過ごさないようにしなくては。酔ってしまっては、何を言い出すか分からない。

「前菜になります」

 オーダーを取りに来たのとも、ワインを運んできたのとも違うギャルソンが、ぼくらの前に皿を置く。何度か来ている店だけれど、今まで見たことのない少年だ。バンコラン好みの綺麗な子だなと思い、ちらりと彼を見ると、全くの無表情。鉄壁のポーカーフェイス。表情を崩さない硬質な美貌に、不信感を覚える。ぼくの様子がおかしい時だからなのかとも思ったけれど、やはり不自然だ。彼が綺麗な少年に無反応などということは、あり得ない。

「ありがとう」

 彼が何も言わないのでぼくが礼を言うと、その綺麗なギャルソンは素っ気ない会釈を返し、ちらりとバンコランに流し目をくれて立ち去った。とうのバンコランは相変わらず、ポーカーフェイスのまま。いや、無反応という反応なんだろう、これは。そう気づいて、腑に落ちた。

「おいしそう」

 気にしないふりで、フォークを手にして美しく盛られたサラダの山を崩す。レタスとパプリカを刺して、口へ運ぶ。酸味のあるドレッシングが、舌に刺激を与える。

「うん、おいしい」

 そうか、とようやく口を開いたバンコランが、フォークに手を伸ばす。食事時でさえ革手袋を外さない、大きな手。あのギャルソンは、彼の手の感触を知っているのだろうか。

 おそらく、ぼくが何か事を起こす前に、どちらか≠ェ動くだろう。

 とりあえずぼくは、デザートを食べ終えるまでは静観を決め込むことにした。

 

 ぼくは、本当に恋愛が下手だ。

 今までしてきたいくつかの過去の恋愛全てにおいて、同じ負け方をしている。

『より多く愛した方が負けなのよ、恋愛は』

 小説で読んだか、映画で見たか。どちらにしろ随分と安手の台詞だ。けれども、これはあながち間違いではない。とりあえず、ぼくにとっては。

 幼い頃に両親と別れたぼくは、おそらく他の同じ年頃の子たちより、誰かへ寄りかかりたい気持ち、依存したい気持ちが強い。それが恋愛の相手に向かうのだろう。好きになった人を、自分の中心に置きすぎてしまうのだ。.その人の気に添わない事は決してしたくないし、相手が望むことなら何だってする。それこそ、人殺しだって。自分の中のいくらかを、自分のために取っておく事が出来ない。身も心も、全てを相手に捧げきってしまう。言葉通り、世界がその人を中心に回るのだ。

 恋に落ちた瞬間に、惨敗している。

 だから、いくら相手がぼくを愛してなどおらずいたぶったり便利な殺し屋として使うことが目的だと見せつけられても、愛していると囁いたそばからの浮気を繰り返されても、怒りはしても自分から別れるなんて考えられない。それどころか、頭の隅にはいつも、捨てられたらどうしよう≠ニいう不安が呪いのように刻みつけられている。

 勿論、バンコランを伯爵と同列に考えてはいない。

 彼はぼくに人殺しなどさせないし、心からの愛を語ってもくれる。全く受け入れられていない訳じゃない自覚もある。

 でも、そこまでなのだ。

 確固たるまでの自信のなさが、彼はぼくを愛している≠ニ言い切らせない。ぼくは彼の伴侶だ≠ニ口に出すのは、パタリロか浮気相手の少年に啖呵を切るときぐらいで、平常心では言えない。

 だから今もこうして、明日から楽しい浮気旅行へ出かける予定のバンコランと、おそらくその浮気相手なのだろう綺麗なギャルソンが目の前にいても、怒りに逆上していなければ何も出来ないのだ。

 

 半ば上の空で進んだ食事は、あっという間にデザートになった。

 前菜以降ずっとぼくらのテーブルの世話をしているギャルソンが、ぼくの前にクレームブリュレの皿を、バンコランの前にはブランデーのグラスを置き、本人はこっそりのつもりなのだろうけれどしっかりとぼくの目にとまる動作で、バンコランの膝に小さくたたまれた紙片を落とし、あまつさえ頬を赤く染めて去って立ち去った。あまり聡明な性質ではないのか、ぼくなど目に入っていないのか。浮気云々よりも、ぼくを無視しきった行動に黙っていられなくなった。

「それ、なあに?」

 ギャルソンがテーブルから散歩離れたところで、少年にも聞こえるだろう声量でバンコランに問う。言ってしまえば、浮気な彼への怒りがいつもよりはゆっくりとだけれど沸いてくる。そうだ、言うんだ。今言わないと、また言えなくなる。うやむやなまま今夜を過ごし、明日の朝に旅立つバンコランを見送ってしまえば、ぼくは地獄の一週間をすごさなければならない。そんなの、嫌だ。

 全く、騙すならもっとうまくやって欲しい。ぼくが決して気づかないように、巧妙に。方向のおかしな八つ当たり気味にそう考えて、伯爵はそういうところは上手だったな思い出す。勿論、バンコランにそうなって欲しい訳じゃないけれど。

 ぼくの問いにバンコランは何も言わず、少年は一瞬足を止めたけれどすぐに立ち去った。

「行っちゃったね」

「・・・何がだ?」

「あなた好みの綺麗な子だね。勇気もある。ぼくの目の前であなたにラブレターなんて」

「何のことだ」

 彼の手が、テーブルの上の葉巻に伸びる。

「膝の上にあるじゃない。白い小さな紙」

 小首を傾げて、彼の膝を視線で示す。こうしているぼくは、彼の目にどう映っているんだろう。

「なんて書いてあるの?明日楽しみにしてるね≠ニか?」

 火を付けようとしていたバンコランの手が止まる。まさか、ぼくが気づいていないと思っていたんだろうか?MI6たっての腕利き諜報員とあろう彼が? だとしたら、よほど浮気旅行に浮かれていたのだろう。ぼく以外の、綺麗な少年との甘いバカンスに。

 彼に対しての怒りが沸き立ってくる。 

「あんまりバカにしないでよ」

 なけなしの自尊心が主張したのか、それだけ言ってバンコランの返事を待たずに席を立って店を出た。デザートが気に入りのレストラン。他のもおいしいけれど、クレームブリュレが特に好きだ。だから、自分を少しでも元気づけたくて頼んだメニューだったのに、結局食べずに出てきてしまった。

なんだってあの少年はこの店で働いているんだろう。バンコランもきっと知らなかったに違いない。ぼくらそれぞれにとって不運な偶然。本当においしいクレームブリュレ。食べたかったのに。でもきっと、当分ここに来る気にはならないだろう。

 

 
 
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